世の中に自分を提示してゆけ

 どんな自分であろうと、世の中に自分を出していけば、必ずあなたを歓迎する人が訪れる。だから、人に何か批判されても、それは気にしなくたって良い。人に批判されるといういうことは、自分が世の中に表れている証拠だ。批判する人が着々と出てくれば、それだけあなた自身は着々と世の中の注目を浴びているということだ。あなたのことが嫌いな人が多いということは、好きな人だって多いはずだ。例え100人のうち、90人が自分が嫌いであっても、その10人が自分のことが好きであれば、十分自分のことが好きな人が多い。だから、どんな姿の自分であれ、世の中に自分を出していって良いのだ。
 批判があったとしても、続けろ。批判を恐れて何かをしないという人は少なからず登場する。例えば、本を出版して、それが大きな批判を受ける。その本を賛同している人がたくさんいるにも関わらず、筆者は腹を立てて、本を執筆しないかもしれない。そこでやめてしまった執筆者は、もはや自分が何をしてきたのか、その時点でわからなくなる。なぜならば、批判ということを恐れるあまり、何もできなくなってしまっているためだ。何もしないということは、生物として、人間として機能してしないということである。
 世の中から自分の見を隠すことは、知覚することを放棄した、受動的な人間になることである。それは能動的な人間の特性を捨てると同等の意味を持つ。仏教では無に到達することが良いとしている。それゆえ、仏教のように、外に自分を顕わにしていない人は仏教の思想と似ているのではと思うかもしれない。しかしながら、それは間違っている。なぜならば、受動的にその人は様々な物事を自分の中に取り込んでいるためだ。したがって、その人は無ではない。無に到達するためには、すべてを放棄しなければいけないからだ。したがって、その中から自己を覆い隠す人は結局、自己中心的な行為をしているに他ならない。
 人は平気で、他の人の露出を目の当たりにしている。例えば、テレビにおいて顔が不細工な出演者を見て、視聴者である私たちも笑う。それに愛着だって湧く人がいる。自分もああなりたくないなと思う人だっている。しかしながら、その感情を抱くことができるのは、その人が自分の前に現れてくれたからである。それゆえ、人を見る、知るということは大変良いことであるので、自分も人に診てもらうのは、すばらしいことなのである。
 結論として、自分が幸せになりたいなら、世間に自分を晒さないといけない。色んな人に見てもらい、もちろん様々な批判は伴うが、自分を賞賛してくれる人がいかに多いか、自覚するのだ。それによって、自分はこれまでにない幸福感を得るだろう。自分は、人に何かできた、そう実感できる。狭い、暗い世界から、抜け出さないと、自分にとっての幸せが何なのかすら、無自覚のままだ。

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