Posts

Showing posts from June, 2018

メンタルを鍛えろ

 どんな人にだって、メンタルが弱くなるときは訪れる。それは、死ぬ間際かもしれないし、子供のころかもしれない。メンタルの弱さは生物的な弱さに直結している。この世で必要なのは揺るぎない精神力だ。若いやつらを見ればわかる。若い人たちはパワーに溢れかえっている。若者は生きていく気配しか醸し出さない。  若い時のことを思い出せ。初っ端から最悪な家庭環境ではない限り、子供っていうのはやんちゃだ。だから、子どもたちは平気で友達や大人になんでも言う。その癖は社会に出るまで続く。それは大変宜しいことだ。なぜならば、その若者たちは、まるで止まることの知らない、車のようだからだ。少し抽象的になってしまったが、若者は世の中を知らないんだ。だから、なんでも言える。けれども、それは本来あるべき姿なのだ。  妥協や同意は生きていく意味を喪失する。妥協や同意をするということは、戦うことを避けるということだ。争いがない世の中は良いと思う人がいるかもしれない。しかしながら、争いがなくなったら、生存本能は機能しなくなる。人は次第に怠って行く。例えば、人に任せるということが妥協の結果として生じてしまうのだ。この人がこう言ってるから、そうしようとなる。すると、その瞬間、自分はもうすでに妥協する側の人間になっているのだ。これは、家畜に例えることができる。家畜というのは他人に飼われている存在だ。家畜は何をするかって言うと、人に飯を食わされて、最終的には食われるわけだ。だから、妥協や同意を積み重ねては行けない。人は逞しく、生きていかねばならないのだ。  自分に自信を持ってメンタルを鍛えろ。例え失敗したとしても気にしない。次に活かせばいい。その時は自分の全力を出し切ったのだから、後悔なんてしない。自分の過ちを謝るのなんて、自由だ。例えば、野球の投手がいる。ボールを投げる瞬間、その投手は自信を持って投げるだろう。実際に、その人が相手の打者に打たれる範囲にボールを投げれば、打たれるかもしれない。しかしながら、見ている人は明確に、その人が攻めているのがわかる。明瞭に、どこで何がしたいのかがわかる。この例では投手と打者の対立が明らかである。この例のように、何かをしたいときは、必ず対立が生じる。自信喪失し、自分のやっていることを放棄したら、対立は生ぜす、何がしたいのかがわからなくなる。なので、とことんこの世を攻めま...

世の中に自分を提示してゆけ

 どんな自分であろうと、世の中に自分を出していけば、必ずあなたを歓迎する人が訪れる。だから、人に何か批判されても、それは気にしなくたって良い。人に批判されるといういうことは、自分が世の中に表れている証拠だ。批判する人が着々と出てくれば、それだけあなた自身は着々と世の中の注目を浴びているということだ。あなたのことが嫌いな人が多いということは、好きな人だって多いはずだ。例え100人のうち、90人が自分が嫌いであっても、その10人が自分のことが好きであれば、十分自分のことが好きな人が多い。だから、どんな姿の自分であれ、世の中に自分を出していって良いのだ。  批判があったとしても、続けろ。批判を恐れて何かをしないという人は少なからず登場する。例えば、本を出版して、それが大きな批判を受ける。その本を賛同している人がたくさんいるにも関わらず、筆者は腹を立てて、本を執筆しないかもしれない。そこでやめてしまった執筆者は、もはや自分が何をしてきたのか、その時点でわからなくなる。なぜならば、批判ということを恐れるあまり、何もできなくなってしまっているためだ。何もしないということは、生物として、人間として機能してしないということである。  世の中から自分の見を隠すことは、知覚することを放棄した、受動的な人間になることである。それは能動的な人間の特性を捨てると同等の意味を持つ。仏教では無に到達することが良いとしている。それゆえ、仏教のように、外に自分を顕わにしていない人は仏教の思想と似ているのではと思うかもしれない。しかしながら、それは間違っている。なぜならば、受動的にその人は様々な物事を自分の中に取り込んでいるためだ。したがって、その人は無ではない。無に到達するためには、すべてを放棄しなければいけないからだ。したがって、その中から自己を覆い隠す人は結局、自己中心的な行為をしているに他ならない。  人は平気で、他の人の露出を目の当たりにしている。例えば、テレビにおいて顔が不細工な出演者を見て、視聴者である私たちも笑う。それに愛着だって湧く人がいる。自分もああなりたくないなと思う人だっている。しかしながら、その感情を抱くことができるのは、その人が自分の前に現れてくれたからである。それゆえ、人を見る、知るということは大変良いことであるので、自分も人に診てもらうのは、すばらしいことなのであ...

自身を持て

 私達は自信満々に生きてもよいのだ。自信のある人を自信のない人が必ずしも信ずる必要はない。なぜならば、自信満々な人も間違ったことを沢山言っているからだ。  自信満々な人は謝らないから、自信の無い人はその人が間違っていると気づかない。例えば、天気予報士が明日は晴れになるでしょうと言う。しかしながら、実際には、その日が雨になることだってある。それにも関わらず、その天気予報士は後日過ちを謝らない。このように、自信を持っている人は容易く間違いを起こすのだ。つまり、謝る必要なんてないのだ。みんな憶測で話しているのだ。  私達は正解みたいな憶測しかできない。私達も天気予報士のように、あってそうなことはいくらでも言える。例えば、毎日同じ朝食を食べていたら、明日も同じ朝食を食べるだろうと思うかもしれない。大半はあっているかもしれないが、必ずどこかで間違いは生じる。だから、結局絶対的な正解なんていうものはないのだ。

他人を幸福にしろ

 自分の幸せには限界がある。自分という存在は無数に存在しているわけではない。自分は何億といる人類の中でただ一人の人間なのだ。だから、自分だけ満たしても、何十億分の一しか満たすことができないのである。幸福とは自分のお腹だと思えばいい。人それぞれ食事の摂取できる分量は決まっている。多く食する人がいるように、少量しか口にくわえることができない人もいる。つまり、世の中には沢山幸せを感じることができる人もいるし、そうではない人もいるということである。それゆえ、自分はこの世の中の調理人だと認識しなければいけない。無数に存在する種類の胃袋を、自分は満たさなくてはいけないのだ。  他人という存在が一番大事なのである。人は自分自身が一番かわいいと思う人がいるかもしれない。しかしながら、自分だけかわいがったとしても、世の中に自分をかわいがってくれる人がいなければ、かわいいとすら思うことはできないだろう。なぜならば、他人がこの世にいないのだから。自分だけの世界は成立しないのである。もし、そんな世界に生きていたとしたら、自分がいかに無力で、何もできないと感ずるであろう。例えば、昼食をコンビニで買う行為、それは他人がいるからその行為が成り立つのである。従って、私たちは、実は、他人に頼り切っているのである。従って、他人をよりよくするために行動すれば、それは間接的に自分を改善することでもあるのだ。  人からの見返りなんていうものはない。自分にさえ、見返りは求めたってどうしようもない。自分はなぜ、こんなことをしているのだろうかと思う必要などない。例えば、自宅の洗濯機が壊れたので、それを買わざるを得ない。ここで、なぜ、私、あるいは俺はこの洗濯機に金かけているのと思うかもしれない。実際に、それは必要だから買っているのである。必要だから何か行動しているのである。あるいは、自分が食事を取って、食いすぎたと後悔することがあるかもしれない。しかしながら、その食事はその時の自分にとっては不可欠だったのである。必然に見返りなど求めないであろう。食事の摂取、それを拒否するなんてことは誰もしない。  人に機会を与えるのだ。自分が人助けをするために取った、その行為はすべて人のためになっているのである。他方で、意図的に誰かの行為を奪ってしまったら、それは人のためにはならない。人に活躍の場を提供するのだ。私たちは何も...

睡眠の大切さ

睡眠はないがしろにされがちだ。睡眠をしっかり取らないと、日中集中力が続かない。普段よりもイライラしたり、落ち込んだりするであろう。 人は一歩先のことは考えられるが、その先のことは予想できない。例えば、携帯を手に取れば、携帯を持ち上げることができる。し...