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自分は優れている

 人間はどうしても他者と比較したくなる。その比較の中で自分は劣っていたり、優れていたり、色々な感情が湧いてくるのだ。しかしながら、劣っているという感情の方が優先してしまう。自分に圧倒的な自信ーあるいは専門性ーがない限り、劣等感を味わってしまうのは人間である。実際には、この劣等感を味わう必要はないのだ。なぜならば、自分という一人の人間は優れているからである。  できる人と比較しても意味がない。自分自身はすでに自分の実力の最大限を発揮しているのである。自分が今いる現状は自信の最大限の力を発揮した位置にいるのだ。したがって、自分は必然的に同レベルの人間の中に組み込まれているということである。だから、自分の優位性が見いだせないのである。例えば、自分がテニス部に所属したとしよう。自分は同じ部活内において自分より強い人が大勢いることに気づく。そして、自身がその部活の中で一番ではないとしたら、自信を持つことはできないであろう。  環境の外をしっかり見渡せば、自信を持つことは可能だ。外の世界へと目を向けてみると、自分よりもできない人はいくらでもいるということが認識できる。例えば、テニスをやっている自分とテニス未経験の人が一緒にテニスをやったら、未経験の人は絶対に勝てない。テニス未経験の人なんて世の中にいくらでもいる。このように考えると、自分というのはテニスという部分においてかなり優位な位置にいるということに感知できるのである。仕事もこの例と同じだ。  競争するだけでは楽しめない。人と競うとなったら、それは終わることがない戦いだ。結果という目的を求めて淡々とただ何かをやり続けてしまう。だから、上の人と比較してはいけないのだ。常に下をみて、自分がいかに優れているかを見るだけでいい。なぜならば、そのように取り組めば自分が楽しめるからである。例えば、自分が上手にピアノが上手に引けると思っていれば、それだけでピアノの演奏を楽しめる。たとえその人が客観的には下手であっても、演奏する本人は非常に楽しそうにしているであろう。その理由は、その人が圧倒的な自信を持って、自分の持っているものーあるいはありのままの自分ーで音楽を奏でているためである。  楽しさを忘れるな。結局自分が楽しむのが一番なのだ。自分がいかにも楽しそうに何かに取り組めば、周りの環境も自ずと良くなるのだ。人は誰しも楽...

好きなことをするには

 人間は誰しも好きなことをしたい。自分の好きな映画を見たり、好きな音楽を聴いたりしたい。しかしながら、その好きなことは世間に認められて初めて、実現することができる。例えば、映画を見るためには金を払う必要がある。従って、どこかでお金を集めなければいけないのだ。それこそ映画をずっと見ていたり、音楽をずっと聴いたりしていても、お金を集めることはできない。何かしらの社会に認めらた方法でお金を稼がなければ望むままには生きられない。  私たちは世間にとって需要のあることを請け負わなければいけないのだ。自分のやりたいことが世間の需要と迎合していれば、それは良い。逆に、自分のしたいことが世間と合致しなかったとしても、世間に従わざるをえない。それゆえ、誰しもが世間に認められる行為をしなければいけないのである。なので、この過程にまずは注目する必要がある。  世間からの承認の先には自由が待っている。私たちはよく好きなことができなくていら立つ。なぜ、これをしなければならないのか。なぜこんな無駄なことをしなければならないのか。もっと好き勝手、我流でやりたいと思うかもしれない。しかしながら、その煩わしいと思われる行為の先には自由自在がある。例えば、自分がサッカーをひたすらやり続け、練習したくないと思う。それでもなおサッカーを続け、気が付けば世界一位になっていた。そうすると、自分は好きなチームに加盟することができる。自分の好きな趣味に没頭することができる。このように、何かしらの専門的なスキルを手に入れられれば、ある程度自由はかなうのである。だから、是認されることと、恣意的な行為は密接に関係しているのである。  お金に限らず、人間関係だって同じだ。ある一人の人物に認められて、自分が友人だと認められる。すると、その友人と一緒にいるとき自分が好き勝手、例えばこのお店行きたいと言うこと、もある程度認められる。彼氏彼女だって同様である。自分の好きな人に認めてもらえば、自分のわがままが通用する。自分の勝手を増やし続けるためには、多くの人に好かれる必要があるのだ。  多くの人に認められればいい。つまるところ、自分のしたいこと、したくないことでも需要があればやり続け、ふとした瞬間に自分の好きなことをやればいいのだ。その過程は困難を要するかもしれない。しかし、次第にそれに慣れてゆき、気が付けば大勢の...

メンタルを鍛えろ

 どんな人にだって、メンタルが弱くなるときは訪れる。それは、死ぬ間際かもしれないし、子供のころかもしれない。メンタルの弱さは生物的な弱さに直結している。この世で必要なのは揺るぎない精神力だ。若いやつらを見ればわかる。若い人たちはパワーに溢れかえっている。若者は生きていく気配しか醸し出さない。  若い時のことを思い出せ。初っ端から最悪な家庭環境ではない限り、子供っていうのはやんちゃだ。だから、子どもたちは平気で友達や大人になんでも言う。その癖は社会に出るまで続く。それは大変宜しいことだ。なぜならば、その若者たちは、まるで止まることの知らない、車のようだからだ。少し抽象的になってしまったが、若者は世の中を知らないんだ。だから、なんでも言える。けれども、それは本来あるべき姿なのだ。  妥協や同意は生きていく意味を喪失する。妥協や同意をするということは、戦うことを避けるということだ。争いがない世の中は良いと思う人がいるかもしれない。しかしながら、争いがなくなったら、生存本能は機能しなくなる。人は次第に怠って行く。例えば、人に任せるということが妥協の結果として生じてしまうのだ。この人がこう言ってるから、そうしようとなる。すると、その瞬間、自分はもうすでに妥協する側の人間になっているのだ。これは、家畜に例えることができる。家畜というのは他人に飼われている存在だ。家畜は何をするかって言うと、人に飯を食わされて、最終的には食われるわけだ。だから、妥協や同意を積み重ねては行けない。人は逞しく、生きていかねばならないのだ。  自分に自信を持ってメンタルを鍛えろ。例え失敗したとしても気にしない。次に活かせばいい。その時は自分の全力を出し切ったのだから、後悔なんてしない。自分の過ちを謝るのなんて、自由だ。例えば、野球の投手がいる。ボールを投げる瞬間、その投手は自信を持って投げるだろう。実際に、その人が相手の打者に打たれる範囲にボールを投げれば、打たれるかもしれない。しかしながら、見ている人は明確に、その人が攻めているのがわかる。明瞭に、どこで何がしたいのかがわかる。この例では投手と打者の対立が明らかである。この例のように、何かをしたいときは、必ず対立が生じる。自信喪失し、自分のやっていることを放棄したら、対立は生ぜす、何がしたいのかがわからなくなる。なので、とことんこの世を攻めま...

世の中に自分を提示してゆけ

 どんな自分であろうと、世の中に自分を出していけば、必ずあなたを歓迎する人が訪れる。だから、人に何か批判されても、それは気にしなくたって良い。人に批判されるといういうことは、自分が世の中に表れている証拠だ。批判する人が着々と出てくれば、それだけあなた自身は着々と世の中の注目を浴びているということだ。あなたのことが嫌いな人が多いということは、好きな人だって多いはずだ。例え100人のうち、90人が自分が嫌いであっても、その10人が自分のことが好きであれば、十分自分のことが好きな人が多い。だから、どんな姿の自分であれ、世の中に自分を出していって良いのだ。  批判があったとしても、続けろ。批判を恐れて何かをしないという人は少なからず登場する。例えば、本を出版して、それが大きな批判を受ける。その本を賛同している人がたくさんいるにも関わらず、筆者は腹を立てて、本を執筆しないかもしれない。そこでやめてしまった執筆者は、もはや自分が何をしてきたのか、その時点でわからなくなる。なぜならば、批判ということを恐れるあまり、何もできなくなってしまっているためだ。何もしないということは、生物として、人間として機能してしないということである。  世の中から自分の見を隠すことは、知覚することを放棄した、受動的な人間になることである。それは能動的な人間の特性を捨てると同等の意味を持つ。仏教では無に到達することが良いとしている。それゆえ、仏教のように、外に自分を顕わにしていない人は仏教の思想と似ているのではと思うかもしれない。しかしながら、それは間違っている。なぜならば、受動的にその人は様々な物事を自分の中に取り込んでいるためだ。したがって、その人は無ではない。無に到達するためには、すべてを放棄しなければいけないからだ。したがって、その中から自己を覆い隠す人は結局、自己中心的な行為をしているに他ならない。  人は平気で、他の人の露出を目の当たりにしている。例えば、テレビにおいて顔が不細工な出演者を見て、視聴者である私たちも笑う。それに愛着だって湧く人がいる。自分もああなりたくないなと思う人だっている。しかしながら、その感情を抱くことができるのは、その人が自分の前に現れてくれたからである。それゆえ、人を見る、知るということは大変良いことであるので、自分も人に診てもらうのは、すばらしいことなのであ...

自身を持て

 私達は自信満々に生きてもよいのだ。自信のある人を自信のない人が必ずしも信ずる必要はない。なぜならば、自信満々な人も間違ったことを沢山言っているからだ。  自信満々な人は謝らないから、自信の無い人はその人が間違っていると気づかない。例えば、天気予報士が明日は晴れになるでしょうと言う。しかしながら、実際には、その日が雨になることだってある。それにも関わらず、その天気予報士は後日過ちを謝らない。このように、自信を持っている人は容易く間違いを起こすのだ。つまり、謝る必要なんてないのだ。みんな憶測で話しているのだ。  私達は正解みたいな憶測しかできない。私達も天気予報士のように、あってそうなことはいくらでも言える。例えば、毎日同じ朝食を食べていたら、明日も同じ朝食を食べるだろうと思うかもしれない。大半はあっているかもしれないが、必ずどこかで間違いは生じる。だから、結局絶対的な正解なんていうものはないのだ。

他人を幸福にしろ

 自分の幸せには限界がある。自分という存在は無数に存在しているわけではない。自分は何億といる人類の中でただ一人の人間なのだ。だから、自分だけ満たしても、何十億分の一しか満たすことができないのである。幸福とは自分のお腹だと思えばいい。人それぞれ食事の摂取できる分量は決まっている。多く食する人がいるように、少量しか口にくわえることができない人もいる。つまり、世の中には沢山幸せを感じることができる人もいるし、そうではない人もいるということである。それゆえ、自分はこの世の中の調理人だと認識しなければいけない。無数に存在する種類の胃袋を、自分は満たさなくてはいけないのだ。  他人という存在が一番大事なのである。人は自分自身が一番かわいいと思う人がいるかもしれない。しかしながら、自分だけかわいがったとしても、世の中に自分をかわいがってくれる人がいなければ、かわいいとすら思うことはできないだろう。なぜならば、他人がこの世にいないのだから。自分だけの世界は成立しないのである。もし、そんな世界に生きていたとしたら、自分がいかに無力で、何もできないと感ずるであろう。例えば、昼食をコンビニで買う行為、それは他人がいるからその行為が成り立つのである。従って、私たちは、実は、他人に頼り切っているのである。従って、他人をよりよくするために行動すれば、それは間接的に自分を改善することでもあるのだ。  人からの見返りなんていうものはない。自分にさえ、見返りは求めたってどうしようもない。自分はなぜ、こんなことをしているのだろうかと思う必要などない。例えば、自宅の洗濯機が壊れたので、それを買わざるを得ない。ここで、なぜ、私、あるいは俺はこの洗濯機に金かけているのと思うかもしれない。実際に、それは必要だから買っているのである。必要だから何か行動しているのである。あるいは、自分が食事を取って、食いすぎたと後悔することがあるかもしれない。しかしながら、その食事はその時の自分にとっては不可欠だったのである。必然に見返りなど求めないであろう。食事の摂取、それを拒否するなんてことは誰もしない。  人に機会を与えるのだ。自分が人助けをするために取った、その行為はすべて人のためになっているのである。他方で、意図的に誰かの行為を奪ってしまったら、それは人のためにはならない。人に活躍の場を提供するのだ。私たちは何も...

睡眠の大切さ

睡眠はないがしろにされがちだ。睡眠をしっかり取らないと、日中集中力が続かない。普段よりもイライラしたり、落ち込んだりするであろう。 人は一歩先のことは考えられるが、その先のことは予想できない。例えば、携帯を手に取れば、携帯を持ち上げることができる。し...